本を読んで考えたこと

無性に何か書き残したくなる本に時々出会う。その記録。

読書すると何がいいのか考える

仕事で子どもの読書活動について考える機会があり、しばらく考えないようにしていた「なぜ読書するのか」「読書するとどんないいことがあるのか」が再び気になりだした。そもそも前提として、「どんな本を読むか」「どんな風に読むか」が人によって様々なので、同じ「読書」とも呼べないような気すらしてきたが、とりあえず私(28歳)の場合を考えてみた。

 

①近づきたい人に近づけるようになる

「この人のことをもっと知りたい」「この人と仲良くなりたい」と思う人が誰にでもいるはず。ピンときた時には、異次元の存在だったり、住んでる世界が違ったり、コミュニケーションの術が全くなかったりする。そういう人に出会った時に、憧れや羨望の眼差しで見ているだけじゃつまらないし、虚しい。嫉妬を生むこともある。

本を読んで、知識や想像力や思考力を高めながら内省を繰り返していると、近づき方が分かることがある。その通りに実行してみると、本当に近づけることがある。きっとこういう風に物を見てるんだろう、こう考えているんだろう、と想像できることはとても大事。「相手にされなかった」「バカにされた」「無視された」と感じる時は、その想像がうまくできておらず、近づき方を間違っている場合が多いと思う。

これは生きてる人に限ったことではなく、亡くなった人の作品や思想と向き合う時にも同じ。初めは「難しい」「分からない」のオンパレードでも、ある日「あぁちょっと分かったかも」と思える時がくる。少し近づけた証拠。

日々の生活でじわじわそういう喜びを味わえたら、それは読書のお陰だと思う。

 

②涙の価値が上がる

涙もろい=情が深い、感受性が豊か、繊細、みたいなイメージ。小説や映画などの感想で「泣いた」「涙が止まらなかった」は便利ワード。それだけで感動を表現できた気になれる。私はずっとこれに懐疑的で、何でもかんでも泣いてたら涙の無駄遣いだと思う。

そもそも涙は、自分のコントロールの範囲を超えた時(自分を制御不能になった時)に流れるものだと思っていて、涙もろい人というのはその制御をしてない(orできない)人なんじゃないか。言葉の力でも筋肉の力でもいいけど、涙を流さないように意識すると意外とできるもの。泣くことに慣れてしまうと、何でも泣けば済むと勘違いしてしまう。泣く前に言葉で説明できるようになると、作品やシチュエーションの解釈や分析が広がってより味わえることも多い。セルフコントロールもうまくなる。

本を読み続けていて、私は明らかに泣かなくなった。昔はよく泣いてたのに。今後も、いざという時のために涙はとっておきたい。「あーーー自分もまだこんな風に泣けるんだーーー」という感動はプライスレス。「こんなことで泣いてしまうんだ」と反省することも。涙は色んなことを教えてくれる。自分の涙のことも人の涙のことも、年齢を重ねるごとに少しずつ分かってくるものだけど、本を読むと、もっと分かると思う。

たまに「全く泣かない」という人がいて、そういう人たちのことは正直よく分からない。でも「30年泣かなかった人がコレで泣いた」みたいな出来事があったらそれってすごいことで、涙の価値は涙の量に反比例する……と言ったら言い過ぎか。

 

とりあえず今日はここまで。読書好きな人とは無限に語れるテーマですね。

極限状態で思いを文字にする(トニー・ジャット『記憶の山荘■私の戦後史』)

 意識があるのに体を動かせない拘束状態がどれほど辛いか、何度か想像してきた。小学校の頃に星野富弘さんの話を聞いたのが人生初の衝撃だったと思う。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病気の存在を知ったのはもう少し後で、進行すると最後は自分の意思で動かせるのが瞼や尻の穴のみという話も聞いた。ドキュメンタリーや映画にも何度か触れつつ、自分なりに物語を膨らませていたわけだけど・・・

 

 書籍という形で作品化されているものに出会ったのは初めてだった。(『五体不満足』は障害の種類が全く別)

記憶の山荘■私の戦後史

記憶の山荘■私の戦後史

 

 口述筆記なので言葉はまだ喋れる段階。でも人の手を借りないと移動することはできない。ベッドに横たわるだけの時間、ひたすら自分の記憶に潜り込み、向き合い続けた著者(話者?)。ジョナサン・スペンス『記憶の宮殿』にならって、記憶や想起をする過程を、自身がスイスで過ごした思い出深い「山荘」に託している。間取りとか、柱の一本一本がどういう佇まいで立っていたかとか、雰囲気とか、そういうものに添わせる形で。

 「書きながら考える」ことを当たり前にしている自分にとって、「横たわってひたすら考える」→「口述」という流れは神業に思える。文字になる前に、ある程度頭の中で完成しているわけだから。しかもその過程が、「山荘」という比喩によって第三者にもみずみずしく伝わるのだからすごい。

 

 自分について語ることはたやすい。ただしそれは、相手と直接しゃべったり、書きながら考えたりできればの話。この本は、エッセイの究極形態だと思った。

 ここでは余談ですが、著者は歴史学者で、『ヨーロッパ戦後史』はピューリッツァー賞最終候補にもなった名著。全然知らなかった。みすず書房様に感謝&敬服。『ヨーロッパ戦後史』、絶対読む。

ソロー『森の生活(下)』まとめ

ブログにまとめないで頭の中で反芻しているうちに消化できてしまったので、まとめはなし。ハハハ。

とても気に入ったので原書を購入した。

ソロー『森の生活(上)』まとめ

終始共感の嵐で、示唆に富んだ1冊だったので、引用しながら自分なりの道筋を探る。長くなりそうなので上下巻に分けて。まずは上巻から。

 

①「進歩」「目標達成」など疑い深い言葉に注意。

世のなかには疑いようのない進歩ばかりがあるわけではないのだ。(略)現代の発明は、いつもわれわれの注意をたいせつな事柄から逸らしてしまうきれいなおもちゃだ。こうしたものは、改善されない目的を達成するための改善された手段にすぎない。(p96)

 

②持ち物に足元をすくわれ「立ち往生」している人間

彼は持ち物にくびきでつながれたまま、なんとか前へ進もうと、もがいているように見えるだろう。私に言わせれば、立ち往生している人間とは、自分だけはどうにか節穴や門を通り抜けたものの、橇に積んだ家具がひっかかって動けなくなってしまった人間のことである。身だしなみがよく、キリッとした、しかも屈託なさそうで、いますぐにも大活躍をはじめそうにみえる男が、自分の「家具」には保険がかかっているとかいないとか話しているのを聞くと、私は同情を禁じ得なくなってしまう。(p120)

一見頭が良くて有能で人が集まっているような人ほどこういうパターンが多い印象。一時期流行った断捨離も、果たして人々の価値観ごと変えられたのか。

 

③毎日自分の生活をしっかり見つめて真剣に生きることの喜び

われわれは機械的な手段に頼ることなく、どんな深い眠りについているときでもわれわれを見捨てないあの夜明けへの無限の期待によって、ふたたび目覚めることを、また、いつまでも目覚めていることを学ばなくてはならない。意識的な努力によって自分の生活を高める能力が、まちがいなく人間にはそなわっているという事実ほど、われわれを奮起させてくれるものはあるまい。(略)その日の生活を質的に高めることこそ、最高の芸術にほかならない。(p162)

さすがにインターネットに支配された資本主義時代で、忙しく慌ただしい日本でいきなりこの境地に立つことは難しそう。だけどあらゆるモノやしがらみから解放されて孤独になれている瞬間の希望みたいなものは、ソロー時代のアメリカと同じように感じられるはず。時間と精神的余裕をなんとか持ち続けたい。

 

④「クールジャパン」「Youが喜んで来てくれるニッポン」「2020オリンピック開催国」の錯覚、穴

われわれは、自分たちが19世紀の人間であることや、自分の国がどこよりも急速に進歩していることを自慢している。けれども、考えてみると、この村などはみずからの文化を高めるために、ほとんどなにひとつしていないではないか。(p193)

今の日本に向かって言われてるのかと思った。

 

⑤いわゆるウェイ系、パリピ、キラキラ女子などに対する違和感、反感があるとしたら…

楽しみをそとの世界に求めて、社交界や劇場におもむくひとびとに比べると、私の暮らし方には少なくともひとつの強みがあった。つまり、自分の暮らしそのものが楽しみであり、いつも新鮮さを失わなかったことだ。それはつぎつぎと場面が変わる、終わりのないドラマのようなものだった。(p204)

「少なくともひとつの」と言ってるところがいいなと思った。自己充足できることは強みだけど、それだけでは変人隠遁者扱いされるし、社会的に社交的に生きることが難しくなる(時にはそれも必要なのに)。あまりにも頑固に孤独を演じていると、戻れなくなって結局自分を苦しめることになると思う。バランスが大切。

 

⑥本気を出すと"無我の境地"で"我"を強く意識できる

われわれは思索にふけるとき、健全な意味でわれを忘れることができる。頭脳を意識的に働かせることによって、行為と行為の結果から離れて立つことができるわけだ。すると、善も悪もいっさいのものが、奔流のようにわれわれの傍らを通りすぎてゆく。(略)私は、自分を人間的存在として知っているにすぎない。いわば思考と感情の舞台としてである。また、私には他人だけでなく自分自身からも離れて立つことができるような、ある種の二重性が存在することも意識している。(p243)

昔はよくこの二重性が許されないものだと思って苦しんだ。どっちが本当の自分か、と。時に二重どころか三重にも四重にもなる。その自己矛盾をまるごと受け入れるには、頭で思い込ませるだけでは力が足りず、時間が必要だった。自分は、ないけど、ある。

 

 ソローの思考に共通していることは、すべてから隔離された一人の時間に生まれたということと、規則正しい生活から生まれたということ。深い思索と規則正しい生活を両立させられたら強い。ソローの人生観、ライフスタイルそのものに鼓舞される。

下巻に続く。。

 

 

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

 

 

ドストエフスキーとトルストイ(『小林秀雄対話集 直観を磨くもの』)

 大学時代にドストエフスキートルストイのメジャーどころを読み、断然トルストイ派だった私。ロシアの二大文豪、誰が読んでも「全然違う」と感じ、どちらかが気に入ると思う。「両方いまいち」はあるかもしれないが、「両方好き」はあまり聞いたことない。

 だが、どこが違うかと言われると、なかなか二十歳そこらの自分には難しかった。当時はかなり自縄自縛で生き辛かったから、「闇に浸るドストエフスキーよりも、光を目指すトルストイ」くらいのざっくりしたイメージでトルストイ派だった。

 

 時は過ぎ、2016年、小林秀雄湯川秀樹の対談を読んだ。お陰で、以上のざっくりしたイメージがかなり明確に。

 

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

 

  小林秀雄の話が面白かったのでまとめて引用します。

あの人(ドストエフスキイ)の小説の中心思想は、あの人の大小説のいちばん先の「罪と罰」の中ですっかり展開されているのですよ。それを何度もあの人は繰り返し反復している。だからどんどんそれは深まっていきますけれども、初めに非常にコスミックなある観念をあの人は得てしまったのです。それ以上、外に逃れ場所もないし行く場所もない。それにいるよりしようがない。そういう人です。

 トルストイはそうじゃない。もっと不安な、何かまだ足りない、どっかに世界がもう一つある、という考えのいつもあった人です。そこはあの二人の根本的な違いです。

 これを読んで、自分の過去を振り返って、あーそりゃトルストイ好きなわけだ、と分かったのだった。 コスミックな観念が得られていなかったから、あんなにもがいていたんだなぁと。深く深く自分に潜っていけてる人が羨ましかった。時々、思考が極まって「もう一つの世界」の片鱗のようなものが見えると、非常に救われる思いがしたものだった。それでもまた振り出しに戻ってもがき出すのだが。

 

 面白いのは、これに対する湯川秀樹の返し。ドストエフスキートルストイの違いが明確になってスッキリ、では終わらなかった。

実際自分の領域をだんだん拡大してゆくというようなことはほんとうにできることかどうか、非常に疑問ですね。自分自身のことを反省して見ても、なかなかできない。つまり初めに獲得したものは比較的若い頃に自分の努力によって得ているわけです。それは非常に強く自分に入っておって……それに自分が従っていけば非常に楽です。しかしその上に何か新しいものを継ぎ足して、別の方へ発展していこうとしても、それは非常な苦痛であって、思うようにはいかない。だからいまのドストエフスキイのような、いまあなたがおっしゃるようなタイプであれば、それはそういうことで一生終るかも知れんけれども、トルストイ的にやっていって、とにかくある程度まで発展していくということは実際困難なことじゃないですかね。

 どっちタイプが楽かという話。ドストエフスキータイプの方が楽、トルストイタイプはキツい。小林秀雄湯川秀樹の二大文豪の話はとりあえずこの辺で落ち着いていく。私のキツさの様相が明らかになったわけだ。

 

 結論としては……

 自分の領域、アイデンティティーのようなものを、模索しなくとも獲得できる(できている)かどうかは、生まれつきの素質であり、選択やコントロールは難しい。ただ、自分の意思で「拡大」「発展」させることはできるはず。それをしない人生はつまらないと思う。楽しそうにしていても、実際は一箇所に留まり続けているだけだし、辛そうにしていると「一歩踏み出せばいいのに」ともどかしく見える。私にとってドストエフスキーはそう見える。

 ただ、ドストエフスキートルストイも、それぞれの苦楽がある。自分はトルストイの苦楽の方が実感できるし、寄り添っていたいと思うけれど、他者理解という意味でドストエフスキーのことも想像して、考えていきたい。そんな1冊だった。

村上春樹についてあれこれ言うことについて(村上春樹『職業としての小説家』)

村上春樹の小説は理屈抜きに、村上春樹だからではなく、名前が伏せられていても、めちゃくちゃ面白い。文字を追う眼球の動きが早くなる。嫌悪感を覚える描写があったとしても、空っぽスカスカじゃんと感じても、多分読者はなんとか最後まで読み通すと思うし、読み終わった後は何か言いたくなる。そうやって何か言いたくなる気持ちにさせることが、村上春樹の凄さの一つだと思う。

読み終わると、批判でも賞賛でも、とにかく読者の心には発信したい何かが残る。そうしてあらゆる世代のあらゆる人たちが様々に発信した言葉が蓄積していって、それを見て新たな読者が生まれるし、その人たちも刺激を受けて何か言いたくなる。これの繰り返しで、村上春樹は今も確実に文学史に刻まれていってるんだと思う。

だが、村上春樹は賞にこだわらない、文壇と距離を置いている、ごく個人的な生き方を好む、などで有名。だからもうそっとしといてあげてよ、黙っといてあげてよ、放っといてあげてよ、というのが私の昔からの本心。ファンとしての自分なりの思いやり。新刊を無条件に購入して読んで個人的に消化すれば、それだけで彼は十分なはず。この描写は何を暗示してるとか、このキャラクターが好き/嫌いとか、全体を通して何を言いたいとか深読みして分析するのは個人の好き好きだけど、「クソつまらん!良さわからん!」「いや面白い!村上春樹わかってない!」みたいな対立は労力の無駄だと感じる。だから黙っているのが賢明なんじゃないか、という結論。

この『職業としての小説家』は、こうやって私が勝手に想像していた彼の仕事観、小説観、人生観を包んでいたベールをかなり剥がしてくれた。もっと早く言ってくれてたら悩まなくて済んだよと思った。でも色んな人が色んなこと発信し続けていたからこそ今の彼が出来上がったし、新たな小説が生まれるし、このエッセイも生まれた。

読み終わって一つ言えることは、村上春樹は私が思っていたよりずっとずっと読者想いだったし、読者を信頼してくれているし、原動力にしてくれているということ。読者について、259ページにほっとすることが書かれていた。

寄せられた意見をひとつひとつ見ていくと、なにしろてんでばらばらみたいに見えます。でも何歩か後ろに下がって、少し離れたところから全体像を見渡すと、「この人たちは総体として、とても正しく深く僕を、あるいは僕の書く小説を理解してくれているんだな」という実感がありました。

 私が読んでこなかっただけで以前から言われていたことかもしれないが、今日これを読んで、私は村上春樹のことをどんどん発信してもいいんだと思えた。自分が発信すればするほど、彼を支える「総体としての読者」はどんどん大きくなっていく。そっとしておかなくても、黙っていなくてもよくて、自分が好きだとか面白いとか思えば素直にそう言えばいいし、つまらんと批判する人には「わかってないですよ!」と熱く語ってもいい。批判もどんどん受け付ければいい。批判も含め、読者があれこれ言うことを、彼は全然嫌がってないんだと分かって安心した。むしろありがたいと感じてくれて、モチベーションになるならこんな嬉しいことはない。

 

天邪鬼ということもあって村上春樹が好きでも斜に構えていた自分と、そんな自分の勝手な思い込みを反省した。これからは真っ直ぐに、積極的に、村上春樹ファン名乗って追っかけていきたい。

彼も60代半ばなので身体に気をつけて無理はしないでほしい。それでも1つでも多くの作品を生み出してくれたら、私はそれを歴史に刻むお手伝いをしたい。

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

 

教育について考えるヒント(岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』)

 発行がほぼ10年前なので古くなっている情報や考え方も多かったが、教育に携わる者として忘れてはいけないと思わされる視点もあった。備忘録としてまとめて書き付け。

 

①「目的」「目標」をはっきりさせる必要がある

 これは前から薄々感じてはいたこと。「生きる力」「世界でトップレベルの学力」「人間力」「豊かな心」など耳障りの良い言葉は、一見目標のようで、ただのスローガンである。具体的にどうしたいのか、そのために何をすればいいのかといった話になると、専門家でも口ごもってしまうという。

 さらに、大目標、中目標、小目標というように、目標もそのレベルと順序を考えなければいけないという当たり前のことに改めて気付かされた。

 

②日本特有の班活動や掃除当番は強みでもある

 最近では組体操が問題視されて、集団行動は悪だとか必要ないとか言われているけど、順番に班長を回して一つの班というまとまりで活動したり、給食当番や掃除当番といった輪番制の仕事を経験したりといった一種の集団行動が、役に立つこともある。例えば阪神淡路大震災で大勢が避難していた中で、暴動や略奪など大きな事件が起こらなかったことは、小学校からの班活動や当番制のおかげでもあると言える。当たり前に役割分担をして順番にリーダーを務めて、という動き方が当たり前にできない国民もいるだろうとのこと。運動会や学芸会などの特別活動も含めて、日本の教育から削減されようとすると外国から「なんで削るんだ」「自国の教育の利点がわかってない」と批判されるらしい。

 自分は集団行動がたしかに好きじゃなかったので、組体操問題で日本のそういうとこやっぱ嫌いだなーと思ってしまったけど、この本を読んだらなーんだいいところもあるんじゃん、と少し軌道修正できた気がする。

 

③「外国からみた日本」が好きなのは今に始まったことじゃない

 ここ数年で外国人はニッポン大好き!論調が目立ち始め、私はてっきりここ数年での変化だと思っていたけど、昔からジョーク(※)にされるくらい日本は外からの目を気にしていたらしい。知らなかった。だから最近の論調を必要以上に問題視して叩くこともないんだなぁと気付かされた。立ち位置が近すぎた。もっと離れてみたら、論点がずれていることが分かった。

 ※「象に関する本を書けと言われて、ドイツ人は詳細な『象の解剖図集』を作り、フランス人は『象の愛とセックスについて』という本を書いたが、日本人は『象は日本人をどう思っているか?』という本を書いた」

 

④日本は「資源が豊富な大国」にもなり得る

 資源が乏しい小国、というイメージは教育によって刷り込まれているだけで、見方によっては森林資源は豊富だし面積だってヨーロッパの国々と比べたらそこまで小さくもない、という話。内田樹が『日本の身体』の中でも憂慮していた考え方の問題。「日本はしょぼくて弱い小国だ」と教え続けるのも、「日本はすごくて強い大国だ」と教え続けるのも、どちらも良くない。

 

⑤学校は入ることより進級・卒業を難しくするべき

 前から言われていることで、日本の大学は入るのが難しく卒業するのが簡単。これは解決すべき問題。でもこれを解決したかったら、そもそも「大学の勉強は就職や社会に出てからの生活に役に立たない」という考えが蔓延っている問題から解決していかなければならなくて、かなりゴールは遠い。

 私は大学時代かなり日常的に勉強させられる国際系の学部で、周りも勉強はスイッチ入れて真面目にやる雰囲気だったので非常に有意義な学生生活だった。大学時代=モラトリアム=遊びという図式が当たり前なのを放っておいていいのかとずっと思ってきた。学ぶ内容そのものももちろんだが、学び方や活かし方まできちんと秩序立てて組まれたカリキュラムを強化することが必要で、そんなん小学校教育でも目指されていることなのに大学でも結局達成できてないという現状。

 日本の大学はとにかくオワッテル、故に就活も引きずられてオワッテル、と悲しくなるので、大学に限らず学校の存在意義を根本的に見つめ直す偉い人が増えたらいいなぁと思う。

 

 以上、人任せにせず、人のせいにせず、自分自身もこれから考え続けてアクションを起こしていきたいポイントを整理しました。

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)