本を読んで考えたこと

無性に何か書き残したくなる本に時々出会う。その記録。

声を出して笑う本(町田康『生の肯定』他)

久しぶりに本読んで声出して笑った。 町田康。天才か。

町田康が面白いのは知ってたけど、相変わらず面白い。突如飛び込んでくる異次元からの語彙と語尾にやられる。しかもタイトル『生の肯定』。これ死にたくなった時に読んだら絶対に死なずにいられると思った。死にたくなった時に町田康を思い出せますように。

生の肯定

生の肯定

 

 

そういえば声出して笑うほどの本ってそうそうないよな〜最後に本読んで声出して笑ったのいつだろうな〜と少し思い返してみた。

すぐに思い出したのは、1、2年前に読んだ内田樹中沢新一の対談『日本の文脈』。内田樹が生み出したコンセプト「男のおばさん」がツボにはまって、涙を流して笑った記憶がある。1回だけの登場なら笑わずに読めていただろうけど、とにかく内田樹がしつこく数ページにわたって「男のおばさん」と繰り返していて大爆笑した。もちろん、私がこれまでに読んだレビューの中に「爆笑しました」は書かれていない(いたらお友達になれそう)。

あと、さくらももこの『神のちからっ子新聞』を初めて読んだ時も泣くほど笑った。完全に新世界だった。

それから穂村弘のエッセイ。「帰宅したらすぐにシャツが脱げるように、家のドアを開ける前にボタンを外し始めるようになって、徐々にそのタイミングが早まって最終的に近くの横断歩道で外し始めるようになってしまった(不審者)」というエピソードでめちゃめちゃ笑った記憶がある。他にも結構声出して笑った話があったような。

 

これらを思い返して考えるに、私がツボにはまって大爆笑する文章の条件は「予想外すぎるワードチョイス&字面 in 真面目な文章」。

まず、予想外”すぎる”のがポイント。どんな文章でも、他人が書いてるんだからそもそも予想外なのは当たり前。予想通りの文章なんてつまらない。自分の予想外のそのまた予想外みたいなエリアからいきなり斬新なワードをブッ込まれて、しかもそのワードがそれまでの文脈から完全に浮いてる時に、笑いの波はやってくる。大抵そういう時って字面も斬新。

そして、それを「とっても真面目に書いてますよ」「あなたを笑わせるつもりは微塵もありませんよ」という顔してやられるとダメ。この人は真剣なんだ…!と思うと余計に笑えてしまう。実は笑っちゃいけないのかもしれない。いや、もうこれ以上考えちゃいけない……

 

 と書いてるうちに思い出した。ついこの間も町田康の「宇治拾遺物語」訳でガハハと声出して笑ったのだった。他の訳者みんな忘れてしまうレベルのインパクトだった。

数少ない「本読んで声出して笑った思い出」のうち2つが町田康。相性が良いのかもしれない。 いや、町田康で笑わない人いるのか???

 

これからも愉快な本に出会いたいものです。笑いは世界を救う。

 

  

日本の文脈

日本の文脈

 

 

神のちからっ子新聞〈1〉 (スピリッツボンバーコミックス)

神のちからっ子新聞〈1〉 (スピリッツボンバーコミックス)

 

 

今年の読書を振り返る(生き物のことばかり考えていた話)

 2017年は、ダーウィンとの出会いから始まった。お正月に映画『レヴェナント』を観て、人類と自然の関わりを太古まで遡って見つめ直したいと思ったのがきっかけで、長らく本棚に積んであった『種の起源』を手に取った。これが、私の生命観、自然観を大きく変える(というか広げる)ことになった第一歩。

種の起源(上) (光文社古典新訳文庫)

種の起源(上) (光文社古典新訳文庫)

 

 

小さいころから動物は好きで、動物園や水族館にも時々足を運んだりしていたけど、人類誕生前は全部ひとくくりで「昔」と言っちゃうレベルの生命史観だった。でも心のどこかにバートンの絵本『せいめいのれきし』は根付いていて、いつかああいう世界(人類誕生前)にも入っていきたいなぁと思いを馳せてはいた。

「歴史」といわれてクリアに思い描けるのはせいぜい二千年くらいだった。「二千年前まで」と「それより前」でざっくり分かれていただけだった私の脳内が、突如として「カンブリア紀」「白亜紀」「ジュラ紀」みたいにして億単位の年数が拓けて伸びていったのだから、ある意味、爆発。長さにしたら何倍だ。ゼロが何個もつく。

 そして好奇心の赴くまま読み始めた生命史関連の本は、読めば読むほど未知の世界を広げてくれたし、そんな世界の解像度を少しずつ上げてくれた。特に分かりやすくまとまっていたのは以下の2冊。何十億年を俯瞰するのに助かる。

〈生きた化石〉生命40億年史 (筑摩選書)

〈生きた化石〉生命40億年史 (筑摩選書)

 
現代思想 2017年8月臨時増刊号 総特集◎恐竜 ―古生物研究最前線―

現代思想 2017年8月臨時増刊号 総特集◎恐竜 ―古生物研究最前線―

 

 「現代思想」は、読み漁った生命史関連の本で得た知識がコンパクトに整理されていたし、世界中の研究者たちが日々頭と体を動かしまくって仮説を立て検証を繰り返し、私のようなド素人にもロマンを分けてくれていることに感謝を覚えたので、永久保存版ということで本棚に残すことにした。

 

さて、生命がどう進化して多様化しているかを追いかけるのと同時に、「人間をその中にどう位置づけるか」「”私”はどう自然と向き合って生きるか」を新たな視点で考えるようになった。地球の歴史、生命の歴史から考えると人類は新参者もいいとこで、進化のツリーの先っぽのちっぽけな点に過ぎない。その中のさらにちっぽけな一人の私。背景が千年単位から億年単位まで広がった私の中で、人類(自分)の存在感は相対的に限りなくゼロに近づき、自然観を否応無くリセットさせられた。

小さい頃好きだった『シートン動物記』や『ファーブル昆虫記』も今読み返したら面白いんだろうなぁと思いつつ、ノンフィクションやエッセイ、思想書など色々あさってみて、特に印象的だった本を挙げていく。

 

フンボルトの冒険 自然という〈生命の網〉の発明

フンボルトの冒険 自然という〈生命の網〉の発明

 

フンボルトは、ダーウィンにも影響を与えたという。自分の足で世界中を探索しまくり、生き物を集めまくり、記録しまくった人。彼はもっともっと現代の人々に知られるべき先駆者だと思った。超偉大。「生き物はみんなつながっているんだ、共存しているんだ」みたいなことは今では常識のように語られるけど、その原点はこの人が作ったと言っても過言ではない。ドラマチックな1冊だった。

  

森は考える――人間的なるものを超えた人類学

森は考える――人間的なるものを超えた人類学

 

生命史への興味とは全く別の次元で哲学や人類学も追いかけていたら、いつの間にかつながっていた。  ”私”は人間の肉体をもって思考しているけど、他の動植物も同じようにそれぞれの質量をもってそれぞれの世界を生きている。サバンナを駆け巡るシマウマやライオン、電車の中に迷い込んできた蛾、家のゴミ箱にわいてくるコバエ、突き詰めると同じ。私と同じ。って考える私……みたいなことを一人で考えると堂々巡りになるところを、『森は考える』を読んだらめちゃめちゃ全てがしっくりきた。

 

東京のゴリゴリの都会で生活してると、こういう思考回路の人にはあまり出会わないけど、ダーウィン、ユクスキュル、ヘンリー・ソローなんかは読んでいて仲間としか思えなかった。 

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

 
動物の環境と内的世界

動物の環境と内的世界

 
ヘンリー・ソロー 野生の学舎

ヘンリー・ソロー 野生の学舎

 

ソローを研究している今福龍太先生と出会えたことも、今年のビッグイベントのひとつ。自分と同じ現代を生きる人で、こんなに共感して尊敬できる人は少ない。ちょうど今年は今福先生の著作集『パルティータ』シリーズも出版されたので、そちらも読み進めている。 

 

こんな感じで、生き物のことばかり考えて過ごした1年だった。生命愛が止まらなくて1人で上野動物園に行ったりもした。この「生命愛」ってつまり、「自分がこの世からいなくなっても生命の輪は依然として存在し続ける」 ことへの感謝や喜びみたいなもので、日常の社会生活も楽になった。lonlinessというよりsolitude的な孤独感をゆるりと纏って、来年も色んな本を読みたい。

最後に、そんな私が死んだら、火葬とか土葬とかじゃなくただそっと森の中に置いておいてほしいなーと強く思った1冊。一番うまく自然に還れる気がしませんか。

森の探偵―無人カメラがとらえた日本の自然

森の探偵―無人カメラがとらえた日本の自然

 

 

読書すると何がいいのか考える

仕事で子どもの読書活動について考える機会があり、しばらく考えないようにしていた「なぜ読書するのか」「読書するとどんないいことがあるのか」が再び気になりだした。そもそも前提として、「どんな本を読むか」「どんな風に読むか」が人によって様々なので、同じ「読書」とも呼べないような気すらしてきたが、とりあえず私(28歳)の場合を考えてみた。

 

①近づきたい人に近づけるようになる

「この人のことをもっと知りたい」「この人と仲良くなりたい」と思う人が誰にでもいるはず。ピンときた時には、異次元の存在だったり、住んでる世界が違ったり、コミュニケーションの術が全くなかったりする。そういう人に出会った時に、憧れや羨望の眼差しで見ているだけじゃつまらないし、虚しい。嫉妬を生むこともある。

本を読んで、知識や想像力や思考力を高めながら内省を繰り返していると、近づき方が分かることがある。その通りに実行してみると、本当に近づけることがある。きっとこういう風に物を見てるんだろう、こう考えているんだろう、と想像できることはとても大事。「相手にされなかった」「バカにされた」「無視された」と感じる時は、その想像がうまくできておらず、近づき方を間違っている場合が多いと思う。

これは生きてる人に限ったことではなく、亡くなった人の作品や思想と向き合う時にも同じ。初めは「難しい」「分からない」のオンパレードでも、ある日「あぁちょっと分かったかも」と思える時がくる。少し近づけた証拠。

日々の生活でじわじわそういう喜びを味わえたら、それは読書のお陰だと思う。

 

②涙の価値が上がる

涙もろい=情が深い、感受性が豊か、繊細、みたいなイメージ。小説や映画などの感想で「泣いた」「涙が止まらなかった」は便利ワード。それだけで感動を表現できた気になれる。私はずっとこれに懐疑的で、何でもかんでも泣いてたら涙の無駄遣いだと思う。

そもそも涙は、自分のコントロールの範囲を超えた時(自分を制御不能になった時)に流れるものだと思っていて、涙もろい人というのはその制御をしてない(orできない)人なんじゃないか。言葉の力でも筋肉の力でもいいけど、涙を流さないように意識すると意外とできるもの。泣くことに慣れてしまうと、何でも泣けば済むと勘違いしてしまう。泣く前に言葉で説明できるようになると、作品やシチュエーションの解釈や分析が広がってより味わえることも多い。セルフコントロールもうまくなる。

本を読み続けていて、私は明らかに泣かなくなった。昔はよく泣いてたのに。今後も、いざという時のために涙はとっておきたい。「あーーー自分もまだこんな風に泣けるんだーーー」という感動はプライスレス。「こんなことで泣いてしまうんだ」と反省することも。涙は色んなことを教えてくれる。自分の涙のことも人の涙のことも、年齢を重ねるごとに少しずつ分かってくるものだけど、本を読むと、もっと分かると思う。

たまに「全く泣かない」という人がいて、そういう人たちのことは正直よく分からない。でも「30年泣かなかった人がコレで泣いた」みたいな出来事があったらそれってすごいことで、涙の価値は涙の量に反比例する……と言ったら言い過ぎか。

 

とりあえず今日はここまで。読書好きな人とは無限に語れるテーマですね。

極限状態で思いを文字にする(トニー・ジャット『記憶の山荘■私の戦後史』)

 意識があるのに体を動かせない拘束状態がどれほど辛いか、何度か想像してきた。小学校の頃に星野富弘さんの話を聞いたのが人生初の衝撃だったと思う。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病気の存在を知ったのはもう少し後で、進行すると最後は自分の意思で動かせるのが瞼や尻の穴のみという話も聞いた。ドキュメンタリーや映画にも何度か触れつつ、自分なりに物語を膨らませていたわけだけど・・・

 

 書籍という形で作品化されているものに出会ったのは初めてだった。(『五体不満足』は障害の種類が全く別)

記憶の山荘■私の戦後史

記憶の山荘■私の戦後史

 

 口述筆記なので言葉はまだ喋れる段階。でも人の手を借りないと移動することはできない。ベッドに横たわるだけの時間、ひたすら自分の記憶に潜り込み、向き合い続けた著者(話者?)。ジョナサン・スペンス『記憶の宮殿』にならって、記憶や想起をする過程を、自身がスイスで過ごした思い出深い「山荘」に託している。間取りとか、柱の一本一本がどういう佇まいで立っていたかとか、雰囲気とか、そういうものに添わせる形で。

 「書きながら考える」ことを当たり前にしている自分にとって、「横たわってひたすら考える」→「口述」という流れは神業に思える。文字になる前に、ある程度頭の中で完成しているわけだから。しかもその過程が、「山荘」という比喩によって第三者にもみずみずしく伝わるのだからすごい。

 

 自分について語ることはたやすい。ただしそれは、相手と直接しゃべったり、書きながら考えたりできればの話。この本は、エッセイの究極形態だと思った。

 ここでは余談ですが、著者は歴史学者で、『ヨーロッパ戦後史』はピューリッツァー賞最終候補にもなった名著。全然知らなかった。みすず書房様に感謝&敬服。『ヨーロッパ戦後史』、絶対読む。

ソロー『森の生活(下)』まとめ

ブログにまとめないで頭の中で反芻しているうちに消化できてしまったので、まとめはなし。ハハハ。

とても気に入ったので原書を購入した。

ソロー『森の生活(上)』まとめ

終始共感の嵐で、示唆に富んだ1冊だったので、引用しながら自分なりの道筋を探る。長くなりそうなので上下巻に分けて。まずは上巻から。

 

①「進歩」「目標達成」など疑い深い言葉に注意。

世のなかには疑いようのない進歩ばかりがあるわけではないのだ。(略)現代の発明は、いつもわれわれの注意をたいせつな事柄から逸らしてしまうきれいなおもちゃだ。こうしたものは、改善されない目的を達成するための改善された手段にすぎない。(p96)

 

②持ち物に足元をすくわれ「立ち往生」している人間

彼は持ち物にくびきでつながれたまま、なんとか前へ進もうと、もがいているように見えるだろう。私に言わせれば、立ち往生している人間とは、自分だけはどうにか節穴や門を通り抜けたものの、橇に積んだ家具がひっかかって動けなくなってしまった人間のことである。身だしなみがよく、キリッとした、しかも屈託なさそうで、いますぐにも大活躍をはじめそうにみえる男が、自分の「家具」には保険がかかっているとかいないとか話しているのを聞くと、私は同情を禁じ得なくなってしまう。(p120)

一見頭が良くて有能で人が集まっているような人ほどこういうパターンが多い印象。一時期流行った断捨離も、果たして人々の価値観ごと変えられたのか。

 

③毎日自分の生活をしっかり見つめて真剣に生きることの喜び

われわれは機械的な手段に頼ることなく、どんな深い眠りについているときでもわれわれを見捨てないあの夜明けへの無限の期待によって、ふたたび目覚めることを、また、いつまでも目覚めていることを学ばなくてはならない。意識的な努力によって自分の生活を高める能力が、まちがいなく人間にはそなわっているという事実ほど、われわれを奮起させてくれるものはあるまい。(略)その日の生活を質的に高めることこそ、最高の芸術にほかならない。(p162)

さすがにインターネットに支配された資本主義時代で、忙しく慌ただしい日本でいきなりこの境地に立つことは難しそう。だけどあらゆるモノやしがらみから解放されて孤独になれている瞬間の希望みたいなものは、ソロー時代のアメリカと同じように感じられるはず。時間と精神的余裕をなんとか持ち続けたい。

 

④「クールジャパン」「Youが喜んで来てくれるニッポン」「2020オリンピック開催国」の錯覚、穴

われわれは、自分たちが19世紀の人間であることや、自分の国がどこよりも急速に進歩していることを自慢している。けれども、考えてみると、この村などはみずからの文化を高めるために、ほとんどなにひとつしていないではないか。(p193)

今の日本に向かって言われてるのかと思った。

 

⑤いわゆるウェイ系、パリピ、キラキラ女子などに対する違和感、反感があるとしたら…

楽しみをそとの世界に求めて、社交界や劇場におもむくひとびとに比べると、私の暮らし方には少なくともひとつの強みがあった。つまり、自分の暮らしそのものが楽しみであり、いつも新鮮さを失わなかったことだ。それはつぎつぎと場面が変わる、終わりのないドラマのようなものだった。(p204)

「少なくともひとつの」と言ってるところがいいなと思った。自己充足できることは強みだけど、それだけでは変人隠遁者扱いされるし、社会的に社交的に生きることが難しくなる(時にはそれも必要なのに)。あまりにも頑固に孤独を演じていると、戻れなくなって結局自分を苦しめることになると思う。バランスが大切。

 

⑥本気を出すと"無我の境地"で"我"を強く意識できる

われわれは思索にふけるとき、健全な意味でわれを忘れることができる。頭脳を意識的に働かせることによって、行為と行為の結果から離れて立つことができるわけだ。すると、善も悪もいっさいのものが、奔流のようにわれわれの傍らを通りすぎてゆく。(略)私は、自分を人間的存在として知っているにすぎない。いわば思考と感情の舞台としてである。また、私には他人だけでなく自分自身からも離れて立つことができるような、ある種の二重性が存在することも意識している。(p243)

昔はよくこの二重性が許されないものだと思って苦しんだ。どっちが本当の自分か、と。時に二重どころか三重にも四重にもなる。その自己矛盾をまるごと受け入れるには、頭で思い込ませるだけでは力が足りず、時間が必要だった。自分は、ないけど、ある。

 

 ソローの思考に共通していることは、すべてから隔離された一人の時間に生まれたということと、規則正しい生活から生まれたということ。深い思索と規則正しい生活を両立させられたら強い。ソローの人生観、ライフスタイルそのものに鼓舞される。

下巻に続く。。

 

 

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

 

 

ドストエフスキーとトルストイ(『小林秀雄対話集 直観を磨くもの』)

 大学時代にドストエフスキートルストイのメジャーどころを読み、断然トルストイ派だった私。ロシアの二大文豪、誰が読んでも「全然違う」と感じ、どちらかが気に入ると思う。「両方いまいち」はあるかもしれないが、「両方好き」はあまり聞いたことない。

 だが、どこが違うかと言われると、なかなか二十歳そこらの自分には難しかった。当時はかなり自縄自縛で生き辛かったから、「闇に浸るドストエフスキーよりも、光を目指すトルストイ」くらいのざっくりしたイメージでトルストイ派だった。

 

 時は過ぎ、2016年、小林秀雄湯川秀樹の対談を読んだ。お陰で、以上のざっくりしたイメージがかなり明確に。

 

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

 

  小林秀雄の話が面白かったのでまとめて引用します。

あの人(ドストエフスキイ)の小説の中心思想は、あの人の大小説のいちばん先の「罪と罰」の中ですっかり展開されているのですよ。それを何度もあの人は繰り返し反復している。だからどんどんそれは深まっていきますけれども、初めに非常にコスミックなある観念をあの人は得てしまったのです。それ以上、外に逃れ場所もないし行く場所もない。それにいるよりしようがない。そういう人です。

 トルストイはそうじゃない。もっと不安な、何かまだ足りない、どっかに世界がもう一つある、という考えのいつもあった人です。そこはあの二人の根本的な違いです。

 これを読んで、自分の過去を振り返って、あーそりゃトルストイ好きなわけだ、と分かったのだった。 コスミックな観念が得られていなかったから、あんなにもがいていたんだなぁと。深く深く自分に潜っていけてる人が羨ましかった。時々、思考が極まって「もう一つの世界」の片鱗のようなものが見えると、非常に救われる思いがしたものだった。それでもまた振り出しに戻ってもがき出すのだが。

 

 面白いのは、これに対する湯川秀樹の返し。ドストエフスキートルストイの違いが明確になってスッキリ、では終わらなかった。

実際自分の領域をだんだん拡大してゆくというようなことはほんとうにできることかどうか、非常に疑問ですね。自分自身のことを反省して見ても、なかなかできない。つまり初めに獲得したものは比較的若い頃に自分の努力によって得ているわけです。それは非常に強く自分に入っておって……それに自分が従っていけば非常に楽です。しかしその上に何か新しいものを継ぎ足して、別の方へ発展していこうとしても、それは非常な苦痛であって、思うようにはいかない。だからいまのドストエフスキイのような、いまあなたがおっしゃるようなタイプであれば、それはそういうことで一生終るかも知れんけれども、トルストイ的にやっていって、とにかくある程度まで発展していくということは実際困難なことじゃないですかね。

 どっちタイプが楽かという話。ドストエフスキータイプの方が楽、トルストイタイプはキツい。小林秀雄湯川秀樹の二大文豪の話はとりあえずこの辺で落ち着いていく。私のキツさの様相が明らかになったわけだ。

 

 結論としては……

 自分の領域、アイデンティティーのようなものを、模索しなくとも獲得できる(できている)かどうかは、生まれつきの素質であり、選択やコントロールは難しい。ただ、自分の意思で「拡大」「発展」させることはできるはず。それをしない人生はつまらないと思う。楽しそうにしていても、実際は一箇所に留まり続けているだけだし、辛そうにしていると「一歩踏み出せばいいのに」ともどかしく見える。私にとってドストエフスキーはそう見える。

 ただ、ドストエフスキートルストイも、それぞれの苦楽がある。自分はトルストイの苦楽の方が実感できるし、寄り添っていたいと思うけれど、他者理解という意味でドストエフスキーのことも想像して、考えていきたい。そんな1冊だった。