本を読んで考えたこと

無性に何か書き残したくなる本に時々出会う。その記録。

苗代が人生を明るくする。(松岡正剛『誰も知らない 世界と日本のまちがい』)

 10日も前に読み終わったが、エピローグも含めた最後の10ページくらいがずっと心地好い余韻として頭に残っているので、何か書いておこうと思った。

 感動したポイントは、「直播きではなくまずは苗代で」という考え方。古代から日本人が稲作で実践してきた手法。苗を育てるための場所で種を播いてある程度まで育ててから、田んぼに植え替えるという、ただそれだけのこと。これを「情報」「知」でも応用しましょう、ということ。

 松岡正剛先生は、「知の巨人」「知の宇宙人」みたいな人。自分では「編集工学」と呼んでいるが、知識(情報)を網羅して編集し直すことの神様。知識量とその整理とアウトプットのスピードが絶望的に(追いつけないという意味で)速い。そして華麗。どんな専門家をも束ねてその1つ上の次元を行っているような、雲の上のおじさん。私は高校生の頃からこの人に影響を受けまくっているので改めてドッカーン!!ときたわけではないが、偉大なる超人正剛先生の思想の神髄は「苗代」なのかと思うと、一生「苗代」「苗代」「苗代」と大事な局面で思い出すだけで全てOKな気がしてくる。

 昔から中庸とか普遍とか、存在するかもわからないオールマイティーな思想に憧れ続けていて、今も相変わらずそのせいで自分の考えが決まらなかったり主張するのが怖かったりする。日々の社会情勢について自分なりに解釈して意見を持つ人が輝いて見えるのに、自分には未だにできない。少し前に比べてずいぶん思想が固まってはきたが、やはりまだまだ足りないことが多すぎて、何かを主張するのは恐れ多い。未熟な自分を晒すだけという気がする。

 そこでこの「苗代」の思想。プロセスを説いているのに、生き方としては確立されたゴールであるところが魅力。「自分は発展途上でどこにも行き着いていない」という遅れの自覚を取り払うことができる。

 私は高校生の頃からとにかく文系科目は授業が楽しくて仕方なかった。バリバリ進学校なのに受験を無視したカリキュラムで、先生たちが自分の専門科目の魅力を伝え続ける授業ばかりだった。そんな授業だったから、新しく入ってくる知識や考え方、ものの見方は何でも面白かった。全部吸収したかった。理系は苦手と思い込んでいたから随分と遅れたものの、今やっと数学、物理、化学、生物なども魅力がわかってきた。 正剛先生と違ってどんどん忘れていくんだけど、それでも学ぶことはとにかく歓ばしい。何百年、何千年の歴史に濾過されて凝縮された叡智は美しい。

 だがこれは気をつけないと「浅く広く」と揶揄されることになる。そう思って自分の歓びや向上心を肯定しづらかった。でもこれは正剛先生が言うところの「苗代で種を育てている状態」なわけだ。大学を卒業して、やっと植え替えし始められている苗もあると思う。これからどんどん植え替えられる苗が増えていく。そう思ったら人生マジ明るくないですか?

 自分が死んだ後にやっと稲が実って、できたお米を色んな人が食べてくれたらそれでよしとしよう。苗代の段階でこんなに明るい気分になれるなんて、正剛先生は凄い。本当に凄い。この人本当に凄い(しつこい)!!!

 まだ読んだことがない人はぜひ読んでください。この本に限って言えば、20うん年間モヤモヤしていた世界史と日本史と哲学がかなり晴れました。

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義

 

 

汚くて綺麗(大江健三郎『見るまえに跳べ』)

 「汚いから綺麗」でもなく、「汚いけど綺麗」でもなく、「汚くて綺麗」。大江健三郎の描く世界にはそんな言葉が合うと思った。 3年ぶりに彼の小説を読んだら、今の方が感じるものが多かった。とにかく純粋だと思った。

 

見るまえに跳べ (新潮文庫)

見るまえに跳べ (新潮文庫)

 

 

 新潮文庫の背表紙の色には、昔から馴染みがあるせいか結構影響されている。大江健三郎の茶色は漱石の茶色とも似ているが、実際よりどす黒いイメージがある。今カバーを外して改めて見てみたら、案外明るい色だった。

 かつて友人と書店の新潮文庫の棚の前で、「大江はクソみたいな色してるよな。」とふざけて笑った思い出があるが、当時の私にはそれが精一杯の賞賛だったのかもしれない。そんなクソみたいな色が、彼の紡ぎ出す言葉と混ざり合って、嗅覚にも触覚にも訴えてくるような、攻撃的な文学。お前が今いるのはこんな場所なんだ、お前が今立ち向かうべきはこんな世界なんだ、わかってるんだろ?さぁ目を開けろ、と動けない状態で暴力を振るわれているような。なのに痛くない。その攻撃に耐えることで、強く立ち直ることができると知っているから、冷静でいられる。

 私にとっては、自分が生ゴミの中に飛び込むような、知らない人間の精液を浴びるような、血を飲ませられるような、そういう強烈なイメージを伴う読書体験。以前はここまで強烈ではなかった。人生経験が不足していたせいか、超未熟だったせいか。「自分はここまで酷くなってないから大丈夫だ」というような安心感もあったかもしれない。なのに今、逆に突き刺さるように感じるのは、二十歳過ぎくらいまでのみずみずしさがどんなに汚れたイメージからも想像できてしまうから。自分の中にはなくなってしまった綺麗なものが鮮やかに映るから。多分そう。もはや美しい。

 「本は若いうちに読んでおけ」という教訓の意味がよくわかった。もう手遅れかもしれないけど、まだ読めていない名作を今のうちに読んでおかねば。

仏像を今すぐ観に行きたい。(上田和夫訳『小泉八雲集』)

 小泉八雲は本名ラフカディオ・ハーン。ちょうど明治維新の時期に来日した。怪談で有名だが、随筆「日本人の微笑」がとにかく良かった。

 まず内容から。

 日本人は、怒られた時、悲しんでいる時、死を覚悟した時など、西洋人が信じられないようなシチュエーションでも微笑する。これは日本古来の自然な生活、思想、慣習を理解しないとわからない。(説明省略。)理解してみるとやはり「日本人はやはり世界で一番いっしょに暮しやすい国民」である。だがこれを崩しつつあるのが西洋から入ってきた利己心。利己心は国家の無秩序を産む。どんどん西洋に染まってこれまでの日本を軽蔑する若者たちも、いつか過去を振り返って懐かしむだろう。そこで思い出す古い神々の温顔が、日本人のこの微笑なのだ。

 ......この終わり方が素晴らしかった。余韻がものすごかった。「いつか過去を振り返って懐かしむ」、その「いつか」が私にとっては今のようだ。

 日本という国は今日も相変わらず進む方向が定まらず、迷走している。とにかく上とか前とかは向いている。色々な人が色々なことを言っていて、衝突なのか共鳴なのかもよく分からない。これは、ニッポンがなんとなくのまとまりで存在し続けていることや、個人主義を西洋から頑張って引っ張ってきたけど上手く馴染まなかったことの表れだと思う。なのにこのままもがき続けて、どこへ行くのか。どこへ行こうとしてるのか。考えれば考えるほど減速。そして行き止まり。

 ここでこの随筆に出会ったのが良かった。

 政治、経済、労働環境、教育、あれもこれもどうしようもない......私は日本を憂いてばかりで、自分から動こうとしなかった。動いても何も変わらないか、叩かれるかだし、あきらめていた。ずるずると停滞していて救いが見当たらなかった。だから小泉八雲が「微笑」という上品で繊細な表現で日本人の特徴をつかみ、それがDNAに刻まれていることを教えてくれたのは本当に嬉しかった。空港で外国人つかまえてインタビューして自分たちのいいとこ探ししなくても、100年前に見つけてくれている人がいた。

 この微笑に立ち返ることで、資本主義社会では後退するかもしれない。でも思想、精神、気の持ちようの面では一歩前進に違いない。

 日本人は今持っているものを手放したくないのかもしれないが、所詮それも手にしてから200年も経ってない"概念"という空箱。しかも使いこなせなかったし、多分これからも使いこなせない。個人がいくら集まっても、国の方向を定めたり、変えることはできず、なぜか力の及ばないところが意図せず色を変えていくばかり、そんな風に進むと思う。それがこの日本列島のニッポンというまとまり。それでいいのだ。と思うしかない。思えば楽になる。

 そんな我が国ニッポンの古き良き微笑を追い求める旅したい......。何とかその素晴らしさを味わおうと頑張っていた数々の仏像、今なら自然と感動できるかもしれない。とりあえず仏像観たい。

 というようなことを考えました。

小泉八雲集 (新潮文庫)

小泉八雲集 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

憧れは憧れ。結局、ないものねだり。(斉藤洋『どうぶつえんのいっしゅうかん』)

 タイトル通り、動物園の1週間を描いた本。この中の、ライオンとクロヒョウが出てくる「木曜日」を読んだ。

 ライオンは、お客さんにサービスしすぎてある日声が出なくなってしまった。となりのクロヒョウは、「そんなサービスをすることはない」「のんびりしてればいい」と消極的な言葉をかけつつも、いざ子どもたちが来ると、ライオンに代わって「ガオー」と吠える。子ども大喜び。でも照れ隠しに、「きょうだけだぞ」「なおったらライオンさんがやってくれ」と怒ったようにねっころがる。ライオンは、王様の座を奪われることを心配し、「あしたからは、やっぱりじぶんががんばらなくちゃ」とうがいをする。おわり。

 

 先日、ある講義でこの話を読み、「ライオンとクロヒョウどちらに共感するか?」というテーマでフリートークをした。”共感”という概念には収まらず、思考がどんどん進んだ。

 まず、自分の過去を振り返ると、私は完全にライオンタイプ。今も無意識にはライオンかもしれない。周りの人が喜んでくれるから、周りの人に頼まれたから、自分は無理をしてでも一生懸命できることをする。それで感謝されるのが純粋に嬉しい。ところがつい無理をしすぎて、気づいたらかなり疲れている。体調を崩すこともある。ここで初めて力を抜こうと意識して、復活。でもまた無理をし始める。の繰り返し。

 もちろんこの生き方は間違いじゃない。私はそう信じて生きてきたし、今も変わらない。努力家とか真面目とか頑張りやとか言われて、ピンとこなくても一応褒め言葉として頂戴してきた。自分の能力を発動して人のためになるのは素晴らしいこと。一生それを貫いて生きるのも悪くない。

 だからこそ、クロヒョウが輝いた。普段から力を抜いて生きるなんて自分にはできないし、ライオンにお礼の言葉を求めるでもなく、「おれはむいてないからやっぱお前がんばれよ」などと言い放って寝るなんて、かっこよすぎる。

 クロヒョウタイプの優しさが光って見えるポイントは、①いざという時に助けられる=いつもそばで見守っている、②自分にもちゃんと能力がある、の2つだと思う。

 ①その人が本当に助けを必要としているかどうかは、自分本位の考え方ではわからないだろうし、良かれと思って助けても、押し付けがましいお節介になりかねない。普段からそばにいて、相手の性質、性格を理解して、「今!ヘルプ!」のサインを見逃さずに黙って手を差し伸べる。ステキだ。

 ②どんなに力になりたくても、自分に能力がなければ不可能。普段は力を抜いてのんびり、ライオンタイプからしたらサボっているように見えても、実はちゃっかり能力を秘めている。ステキだ。

 そして、もちろんそれを自分からは言わない。気づく人も少ない。助けた相手でも気づかないかもしれない。......ステキだ!

 と、こんな風にどんどんクロヒョウへの憧れが高まり、自分は今日からクロヒョウタイプで生きていこうと心に決めた!けど、よく考えたら、これはないものねだりなんじゃないか。クロヒョウは、いつも人気者の百獣の王を見て、羨ましく思ってるかもしれないし、自分が代わりに子どもたちを喜ばせた時は、素直に喜びを表現したかったかもしれない。ライオンにだって憧れのポイントはたくさんあるはず。それに、変わりたくても変われないんだきっと。

 意識するだけでも違うかもしれないから、今までただのライオンだったけど、これからはクロヒョウになりたいライオンとして生きていこうと思った。

 

どうぶつえんのいっしゅうかん (わくわくライブラリー)