本を読んで考えたこと

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ドストエフスキーとトルストイ(『小林秀雄対話集 直観を磨くもの』)

 大学時代にドストエフスキートルストイのメジャーどころを読み、断然トルストイ派だった私。ロシアの二大文豪、誰が読んでも「全然違う」と感じ、どちらかが気に入ると思う。「両方いまいち」はあるかもしれないが、「両方好き」はあまり聞いたことない。

 だが、どこが違うかと言われると、なかなか二十歳そこらの自分には難しかった。当時はかなり自縄自縛で生き辛かったから、「闇に浸るドストエフスキーよりも、光を目指すトルストイ」くらいのざっくりしたイメージでトルストイ派だった。

 

 時は過ぎ、2016年、小林秀雄湯川秀樹の対談を読んだ。お陰で、以上のざっくりしたイメージがかなり明確に。

 

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

 

  小林秀雄の話が面白かったのでまとめて引用します。

あの人(ドストエフスキイ)の小説の中心思想は、あの人の大小説のいちばん先の「罪と罰」の中ですっかり展開されているのですよ。それを何度もあの人は繰り返し反復している。だからどんどんそれは深まっていきますけれども、初めに非常にコスミックなある観念をあの人は得てしまったのです。それ以上、外に逃れ場所もないし行く場所もない。それにいるよりしようがない。そういう人です。

 トルストイはそうじゃない。もっと不安な、何かまだ足りない、どっかに世界がもう一つある、という考えのいつもあった人です。そこはあの二人の根本的な違いです。

 これを読んで、自分の過去を振り返って、あーそりゃトルストイ好きなわけだ、と分かったのだった。 コスミックな観念が得られていなかったから、あんなにもがいていたんだなぁと。深く深く自分に潜っていけてる人が羨ましかった。時々、思考が極まって「もう一つの世界」の片鱗のようなものが見えると、非常に救われる思いがしたものだった。それでもまた振り出しに戻ってもがき出すのだが。

 

 面白いのは、これに対する湯川秀樹の返し。ドストエフスキートルストイの違いが明確になってスッキリ、では終わらなかった。

実際自分の領域をだんだん拡大してゆくというようなことはほんとうにできることかどうか、非常に疑問ですね。自分自身のことを反省して見ても、なかなかできない。つまり初めに獲得したものは比較的若い頃に自分の努力によって得ているわけです。それは非常に強く自分に入っておって……それに自分が従っていけば非常に楽です。しかしその上に何か新しいものを継ぎ足して、別の方へ発展していこうとしても、それは非常な苦痛であって、思うようにはいかない。だからいまのドストエフスキイのような、いまあなたがおっしゃるようなタイプであれば、それはそういうことで一生終るかも知れんけれども、トルストイ的にやっていって、とにかくある程度まで発展していくということは実際困難なことじゃないですかね。

 どっちタイプが楽かという話。ドストエフスキータイプの方が楽、トルストイタイプはキツい。小林秀雄湯川秀樹の二大文豪の話はとりあえずこの辺で落ち着いていく。私のキツさの様相が明らかになったわけだ。

 

 結論としては……

 自分の領域、アイデンティティーのようなものを、模索しなくとも獲得できる(できている)かどうかは、生まれつきの素質であり、選択やコントロールは難しい。ただ、自分の意思で「拡大」「発展」させることはできるはず。それをしない人生はつまらないと思う。楽しそうにしていても、実際は一箇所に留まり続けているだけだし、辛そうにしていると「一歩踏み出せばいいのに」ともどかしく見える。私にとってドストエフスキーはそう見える。

 ただ、ドストエフスキートルストイも、それぞれの苦楽がある。自分はトルストイの苦楽の方が実感できるし、寄り添っていたいと思うけれど、他者理解という意味でドストエフスキーのことも想像して、考えていきたい。そんな1冊だった。